教えること、教えられること

つい先週、母校で1コマ(90分)話してきた。

これまでの自分の作家活動について話したのだけれど、果たしてどれほど学生の皆に届くものがあったのだろうと、思い返すと少し落ち込みそうになる。つくってきた資料の動画が再生できなくて、途中で中断したりしたし、最初に教室の端まで声が届いているか訊くとか、そういうことをすべきだったし(内容以前だ!)。言葉のことを制作と絡めて話したかったけれど、しっかり伝わるところまで話せたのかも自信がない。

その反動で、ひとの話を聴きに行く機会がよけいに増えている。それはそれでいいけれど、自分と同じ世代で(下でも)、ちゃんと教える立場にたっているひとはたくさんいるのに、私ときたら与えてもらう側を堪能している。

星野博美展「睡りのきざし」

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星野博美さんは高校生の時からの友人だ。木炭で石膏デッサンをしながら、消しゴムにつかう食パンの耳をかじる姿をお互い知る間柄である。

来年で6回目を迎える中之条ビエンナーレを、同世代の仲間とともに、その立ち上げからずっと支えてきた彼女は、2009年に中之条町に移住した。
それ以来、農家に勤めながら、実行委員として、参加アーティストの対応をし、自らも絵を描いてきた。
彼女の家にお邪魔すると、土のついた靴や服、野菜、そして、たくさんの本と画集、スケッチが、ごく自然に身を寄せ合っている。

彼女に会うと、畑仕事に携わるひとたちのことや、畑仕事をして初めて知った風景や時間の感じ方の話をよくしてくれた。
7年という月日は、けして短いものではない。からだに堪える農作業に携わりながら、その人柄のおかげで、地元のひとからとても愛され、馴染んでいる彼女だけれども、一貫して彼女は新参者の口調だ。この土地の暮らしにはこんな知恵が、こんな感性があるんだよ、私には見えていないものを彼らは見ているんだよ、といつもぱちっと見開いた目で教えてくれる。中之条町は若山牧水など、詩人や俳人が訪れては作品を残している場所でもある。彼女は農夫にも画家にもなりきらない自分を、旅人の彼らに重ねながら、どこか客観視をしているのかもしれない。

そして、そのおかげで、「彼女が新参者ならば、ビエンナーレの作品制作ために束の間滞在する自分はなんなのだ」という緊張感を私は持ち続けられたのだと思う。

前置きが長くなったけれど、そんな星野さんが群馬の南西部の山間部にある上野村のyotacco cafeで個展をしているので、行ってきた。
http://yotacco.com/

http://yotacco.exblog.jp

中之条ビエンナーレで絵を見てきたし、スケッチも目にしている。しかし個展は本当に久しぶりだ。個展というのは、とにかく決断が要求される機会だと思う。ひとつの作品をつくるときでも、無数の選択と決断を重ねているものだけれど、ひとつの展覧会を自立させるには、より大きな決断が必要だ。

自分よりも周りを優先してしまう、優しい性格などというのでは生易しい、もはやそうした体質としか言いようのない彼女が、自分の絵のために時間を費やし、その「決断」をするということが、古くからの友人として、ひとりの作家としてとても嬉しかったし、待ち遠しかった。

古民家を丁寧に磨き上げリノベーションしたyotacco cafe。しかし、古さや懐かしさというよりも、残ってきた(残されてきた)ものがもつ独特の硬質さがより強く感じられる気持ちのよい場所だった。昔ながらの土間と和室のあちこちに、14の絵が展示されている。

大根の絵が目をひいた。大根の葉と根の部分のつなぎ目が気になったと話していたが、たしかに、その二つの部位の接続部分に目が自然といく。新鮮な葉と茎は塩もみすると美味しいんだよな、と内心思いつつ、絵を眺める。

大根は土のなかに障害物があると、二股にわかれるという話や、葉が育ち根が肥大していく栄養成長と生殖成長の話、大豆は枝豆とちがって、葉が枯れてから収穫するため、その畑の様子は「貧しく」見えるという話。絵を描くときは、絵そのものがおのずと求めてくる声というものがある気がするけれど、彼女の今回の制作では、畑仕事をするなかで得たそうした知識が、絵を描くための選択と決断のための大切な手がかりとなっているようだった。

印象的だったのは、縦長の構図が見られたことだ。手ぬぐいくらいの大きさの縦構図は、細長い大根を描くのにぴったりではあったけれど、それがその構図を選ばせた理由ではないような気がした。大根は土に植わっているわけではなく、背景とは少し分離して、宙に浮いてる(半分土に植わっている構図もある)。土のなかのようすを透かして描いているようにも見えるけれど、その白さのせいか、抜かれた大根とただ向かい合っているという気分のほうがしっくりくる。野菜ではないが、カエルが描かれた縦長の一点には、「蛙姿/秋が落ちる」というタイトルがつけられていて、縦構図の上から下へと時間の変化を見せている。横には夜明けの空の下、地中でじっと待っているような生姜の絵「生姜姿 – 芽が動く」。

画面の垂直線は、見る人の(描く人の)身体と呼応する(寝転んで見ればちがうけど)。その下降方向には、落ち葉や土が降り積もり、土壌の育まれる時間が、上昇方向には、それを糧として上へ上へと育っていく植物の成長の時間がこめられているのかもしれない。そういえば、展示が決まるずっと前から「縦長の絵が描きたい」と話していた。

もうひとつ絵を特徴づけていたのは、以前とは異なるコラージュの技法が使われていたことだ。彼女は長く古新聞を絵に使ってきたので、モノクロームに近い色合いの絵が多かったが、今回はyotacco cafeの空間のなかで映える鮮やかさがそこにあった。和紙にグラデーションのある色面をつくり、そこにスケッチの線を重ねてカットし、画面に貼り付けて絵はできている。色面はムラがあり、うつろい変化する時間をあらわすのにふさわしい。

日頃から(というか高校生の時から)スケッチをこまめにしてきた彼女の持ち味は、指がそのままコンテや鉛筆、筆になったような線であり、それが親しみぶかい絵の気質を決めていたように思うけれど、今回の作品はその線はカットのための線となり、くっきりと色面をわける。それは、空間を捉え奥まったり前にでたりという線とはちがい、絵の表面にとどまり手前へと張りをもたらしている。その感覚は、畑のなかで勢いをもって育ってくる野菜の葉を見る時とどこか似ている。季節は流れ、野菜は日々成長する。農業ほど「変化」と運命をともにする仕事はないかもしれない。だからこそ、収穫の時を見定める目もまた鋭くなっていく。絵のモチーフは実りの部分が土の下に隠れている根菜(ごぼう、里芋、人参など)が多かった。彼女がそれらを描くことは、農夫がもつその見定めの目を敬い、その面白さを画家として経験する行為だったと思えてくる。

今回、彼女は風景でも人でもなく、野菜を選び、絵のなかに表した。それは彼女が移住してから身体のなかにたまってきた様々な経験と思考を「収穫」することとも重なっていたのではないか。ぱっと華やかにさえ見える大根の葉の絵を見ていたら、なにかを知ったり見つけたりした時の彼女のぱちっと見開いた目を思い出した。

「地下光学」展

11/18よりグループ展が始まります。

今回はじめて本格的に映像作品に取り組みました。正直、ほとんど初めてのことばかりで、本当にたくさんの方に助けてもらいました(今もまだ)。

個人差は当然あるものの、子供はだいたい一歳前後からしゃべりだすと言われているそうです。

昨年から発声や発話のことに興味をもって制作をしてきたこともあり、一歳前後の子供たちが声を発する映像を撮り、別の映像と組み合わせたインスタレーションをつくっています。撮影したのは少し前ですから、映像を見たら懐かしいと思うくらい、今頃子供たちは成長しているんだとと思います。お忙しいなか、快く家での撮影につきあってくださった10組のご家族、紹介してくれた友人知人に感謝の気持ちでいっぱいです。

この展覧会に誘ってくださった田島鉄也さんは、中之条ビエンナーレで知り合った方ですが、いつも作品が大変するどく、また、フーコーの読書会でもご一緒して、お話するたびに刺激をもらえる尊敬する作家さんです。彼が書いた「内在光(目を閉じて瞼を押したときに感じる光)」についての説明から始まるステートメントもまた、たくさんの発想を私にもたらしてくれました。

websiteもあるので、ぜひご覧ください。

https://chikakougaku.wordpress.com

-会期: 2016 年 11 月 18(金)-27 日(日)  ※21、22日は休み

-時間: 12 時~19 時 (最終日は 17 時まで)

-会場: アートスタジオ Dungeon(ダンジョン) アクセスはこちら

◆ 11月27日(日) 14:00~ ギャラリートーク (その後、作家を囲んでの懇親会)

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アーティストトーク

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新城市での展覧会も日曜までとなりました。制作中は真夏の日差しだったのに、先日行ったら秋の光に。どこか落ち着いた作品に迎えられて、作った本人なのに訪問者のような気持ちになりました。
最終日はトークで作家が全員集まります。昨年出展された升谷さんもスカイプで参加されます。

少し長丁場ですが、それぞれ作品のことや、今考えていることなどをお話しできたらと思っています。来ていただいた方ともお話しできるのも楽しみにしています。

お天気も回復するようなので、ぜひお出かけください!

http://kadoya-art.com

日時 : 10月2日(日) 10:30 – 12:00/13:00 – 15:30
アーティスト自身による作品解説
・10:30 - 鈴木孝幸
・11:00 - 丸山勇樹
・11:30 - 名倉達了
休憩(12:00 – 13:00)
・13:00 - 山口貴子
・13:30 - 大和由佳
・14:00 - 山口諒
・14:30 - 山田沙奈恵
・15:00 - 升谷絵里香 ※2015年参加作家。ビデオ通話による活動報告を予定。

今は夏と秋の展覧会に向けて毎日を過ごしています。

夏は昨年も参加した愛知県の鳳来寺山のふもとでの展覧会

秋は久しぶりの都内、板橋での4人展。

準備は早めに進めているつもりだったけれど、結局慌ただしくなっています。

制作にも生活にもいろいろなことが起こり、作品を感光している横で、意味もなくスニーカーを洗っていたりします。

最近は「声」にフォーカスすることが増えてきました。秋の作品では赤ん坊のまだ言葉にならない声を作品のなかで使います。

制作に靄がかかってくると、いつも立ち戻るのは、言えなかった言葉が体の中をのたうちまわって染み込んでまた体に戻っていく、その熱さのところ。

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八丁堀にあるmilkeastでの展覧会は無条件修復二、三期と、最後となったSelf-Reference Reflexology展だけしか見られなかった。他人の展示場所なのに、これが最後なんだな、と今まで抱いたことのない気持ちを抱いていることに、帰り道に気づいた。

どの展示も面白く、居心地がよかった。三回中二回、近所の女性らしきひとがにこやかにあらわれて、作家さんと立ち話をしていた。その人懐こいようすに私までなぜか話しかけたくもなるけれど、まあやめておく。
展示会場の二階にはじっと変化を待ちたくなるような作品がいくつかあったので、よけい感じたのかもしれないが、いたいだけいられるし、帰りたいときに帰れる、適当な時間をここで過ごしているという心地よさがあった。同時に、すべてを見切れていない(私が来る前から作品はそこにあり、帰ったあともそこにある、変化をたっぷりと伴って)という足りなさを一緒に味わうことにもなる。なにしろ、植物が作品だったりするので、そういう意味でもすべて見届けるのは難しい。
見切れていないと思いながら、なぜ、よい展示などとも口にできるのか。帰り道そんなことも考えていた。時間をかけなくてもイケてるとわかる作品というものはある。本当に自分が心が持って行かれているかは別として、そういうものについては、後からひとにも説明しやすい。しかし、milkeastでの作品はそういうものとも違っている。その見足りなさは、作家自身が試みに費やしてきたものの厚みや、私が背中を向けた瞬間に変化するかもしれない軽やかで移ろいやすいものの存在のものを、敬う、ちょっと上品すぎる表現かもしれないけれど、そんな気持ちに近い気がする。

もともとの物件の状態を知らないものの、おそらくかなり傷んで需要のなくなった家にたいして、作家たちが工夫を施し(それは通常の制作と境界のあるものではなかっただろう)、そして重ねた様々な試みを、あの建物は受け止め、多くを招き入れた。

良い展示というのは、そのオリジナリティーにとてもかなわないと圧倒してくる力だけでなく、自分でも始めたいと身の回りを見渡すことを促す力もあると思う。

あの不思議な共生のあり方を、私はこれからも覚えているだろう。

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ユビュ王、アパルトヘイトの証言台に立つ

数ヶ月前のことだが、ふじのくに せかいの演劇祭でウィリアム・ケントリッジ演出の舞台「ユビュ王、アパルトヘイトの証言台に立つ」が見られるというので、すぐにチケットをとった。G.W.に遠出をするのは久しぶり。airbnbで見つけた猫がいるお家に一泊することにする。4匹のアビシニアンとおいしい静岡おでんを作るミュージシャンの方が営む宿

当日はプレトークがあって、時間になると、一人の巻き毛の男性が、名乗ることなく紹介もなく、フロアの小さなな壇上にたたっと上がった。上演前の限られた時間なので、手際よくこの演劇が扱う南アフリカの真実和解委員会についての説明をする。話すのがうまいひとだなあ、と思っていたら、社会学者の大澤昌幸さんだと後で一緒に行ったひとがが教えてくれた。

配られたリーフレットには、キャスティングとともに、二つの文章が載っていて、それもとてもよかった。

ひとつめの、共同演出者のヤニ・ユングの製作ノートの冒頭には、自身が大学生のとき、「ユビュ王、アパルトヘイトの証言台に立つ」を南アフリカのナショナル・アーツ・フェスティバルで初めて観たときのことが書かれている。それは1997年のときのことで、マンデラ大統領が96年に真実和解委員会を開いて、公聴会は2年半に及んだということだから、完全にタイムリーで、渦中のなかでの演劇であったということだ。

”この作品を見られたことは、私の芸術上のキャリアにおいて決定的なものとなりました。この作品で、真実和解委員会が、マスメディアによる報道には全くできなかったような形で活き活きと描かれているのを見て、私は真実和解委員会における審議だけでなく、私たちの国が近年に経験したさまざまな出来事との間に、より深い感情的関係を結ぶに至りました。”

また、アフリカ英語文学が専門の溝口昭子さんの説明には、南アフリカという多民族国家がいかに「国民意識」を共有し、作り上げてきたかが簡潔にまとめられ、この委員会での公聴会の「演劇性」についての指摘がなされている。

”アパルトヘイト体制の支配者と被支配者が一夜にして「加害者」ち「被害者」となり、公衆の面前で「加害と被害」の過去を物語るとき、彼らがその役割を「演じている」わけではないと果たして言い切れるだろうか。”

この二人の視点はそれぞれ異なるものであるけれど、これらを読んで、私はフィクションとはどういうものなのかということについて、教えてもらった気持ちになった。この劇は、実際の出来事をベースにしているから、純粋なフィクションではないかもしれない、しかし、「つくりもの」がゆえに届くものの豊富さと広さ、「つくりもの」だからこそ、「真実」の危うさを目に見えるものにする鋭さというものがあるのだ。

劇内では、白人男性の役者が「ユビュ王」を、その妻を黒人女性が演じている。ケントリッジならではの視覚的な演出はそれほど際立ってはいなかった気がするが、恐れや欲望をけして脱ぎさることのできない、人のあまりの鈍重さを終演後もしばらく味わった。役者は、その体、声、血を差し出しながら、その役の人物をもっとも批評的に切り刻み続けてもいるのだと思う。

一方で、南アフリカの人形劇団ハンドスプリング・パペット・カンパニーが操るパペットも素晴らしかった。「空洞」の人形の動きや言葉は、軽はずみで節操がなく、人の重さとは対照的なその存在が際立っていた。

この演目しか見られなかったものの、ふじのくに せかいの演劇祭は、お客さんが簡単に呼べそうなエンターテイメント方向ではなく、この時代に伝えたいテーマをしっかりもった上で、それほど演劇に知識がないひとも魅了できるようなものを見せていこうという気概を感じた。

静岡は生まれた場所でもあるので、また来年も行けたらいいな。

(真実和解委員会については、「カントリー・オブ・マイ・スカル – 南アフリカ真実和解委員会”虹の国”の苦悩」という本が詳しいらしい。ぜひ近いうちに読みたい。)