Bleah 001

fullsizerender-3%e3%81%ae%e3%82%b3%e3%83%94%e3%83%bc

広告

大晦日

地下光学展のアーカイブがやっとできました。ぜひご覧ください!

アーカイブ

展覧会には撮影させていただいたご家族の方にもお越しいただきました。

子供たちを撮影してから数ヶ月たっており、すでに作品の中の様子がとても幼く見えるほど、その成長が早いことを目の当たりにして、人を撮って残すという映像や写真の機能も改めて思い知らされた気がします。展示空間にいる彼らを撮るのが、また楽しかった。。。

dsc_2818dsc_2851

 

さてさて、あっというまにきてしまうんだと、重々自分に言い聞かせていたとおりに、大晦日がやってきました。

今年は二個大きめのインスタレーション作品が作れました。ペースとして早くないのですが、もっとかけていいとも思っていて、足腰鍛えてがんばります。

 

大和由佳

アコーディオン

先週mama!milkの生駒祐子さんの素晴らしいアコーディオンを聴いた。

楽器は少しふいごに似ていて、火じゃなくて音楽を熾していた。

楽器が開くときと閉じるときの音の性格がまるでちがっていた。アコーディオンもそうだけど、弦楽器とかハーモニカとか、往復で音がでるものを聴くとき、管楽器とはまたちがう呼吸を自分は感じるのだなと思った。もしかしたら、喘息の発作のとき、吸う時も吐く時もヒューヒュー音がでるからだろうか。

メロディーを思い出すことができない、しかし、そこで音の響いた空気がまるっと心に残っている。そんな音楽の聴き方が許されるのかな。でももっと正直に書くと、空気がオコーディオンや演奏者の肺に吸い込まれ、また吐き出されることに目と耳が猛然と惹きつけられていた。それは二つの呼吸している一つの生き物としての音楽があった。

演奏の前に、生駒さんがこれまでの活動や音楽についてのお話も聴かせてくれた。産毛一本一本まで感性のような方であり、ご自分でもそうしてこそ、そうでなければ音楽を作り奏でられるだろうかという、しかしごく自然な覚悟をされている感じがした。

実はこのライブは、ある大学の哲学の授業の一環で、私は聴講させてもらったのだけど、そこで相席になった学生さんとも話した。一人は医学を、一人は物理を学ぶ若者だった。美術を学ぶひとはもちろんのこと、こうした違う分野を志すひとが、芸術や哲学から栄養を得ていること(得られると思っていること)が素直に嬉しい。

3人とも理系と文系の両親をもつ家庭に育つという共通点に気づき、あるある話でちょっと盛り上がった。名前も聞かず別れた、あの二人のこれからの人生に、幸多かれと願う。

教えること、教えられること

つい先週、母校で1コマ(90分)話してきた。

これまでの自分の作家活動について話したのだけれど、果たしてどれほど学生の皆に届くものがあったのだろうと、思い返すと少し落ち込みそうになる。つくってきた資料の動画が再生できなくて、途中で中断したりしたし、最初に教室の端まで声が届いているか訊くとか、そういうことをすべきだったし(内容以前だ!)。言葉のことを制作と絡めて話したかったけれど、しっかり伝わるところまで話せたのかも自信がない。

その反動で、ひとの話を聴きに行く機会がよけいに増えている。それはそれでいいけれど、自分と同じ世代で(下でも)、ちゃんと教える立場にたっているひとはたくさんいるのに、私ときたら与えてもらう側を堪能している。

星野博美展「睡りのきざし」

b0209774_14481534.jpg

星野博美さんは高校生の時からの友人だ。木炭で石膏デッサンをしながら、消しゴムにつかう食パンの耳をかじる姿をお互い知る間柄である。

来年で6回目を迎える中之条ビエンナーレを、同世代の仲間とともに、その立ち上げからずっと支えてきた彼女は、2009年に中之条町に移住した。
それ以来、農家に勤めながら、実行委員として、参加アーティストの対応をし、自らも絵を描いてきた。
彼女の家にお邪魔すると、土のついた靴や服、野菜、そして、たくさんの本と画集、スケッチが、ごく自然に身を寄せ合っている。

彼女に会うと、畑仕事に携わるひとたちのことや、畑仕事をして初めて知った風景や時間の感じ方の話をよくしてくれた。
7年という月日は、けして短いものではない。からだに堪える農作業に携わりながら、その人柄のおかげで、地元のひとからとても愛され、馴染んでいる彼女だけれども、一貫して彼女は新参者の口調だ。この土地の暮らしにはこんな知恵が、こんな感性があるんだよ、私には見えていないものを彼らは見ているんだよ、といつもぱちっと見開いた目で教えてくれる。中之条町は若山牧水など、詩人や俳人が訪れては作品を残している場所でもある。彼女は農夫にも画家にもなりきらない自分を、旅人の彼らに重ねながら、どこか客観視をしているのかもしれない。

そして、そのおかげで、「彼女が新参者ならば、ビエンナーレの作品制作ために束の間滞在する自分はなんなのだ」という緊張感を私は持ち続けられたのだと思う。

前置きが長くなったけれど、そんな星野さんが群馬の南西部の山間部にある上野村のyotacco cafeで個展をしているので、行ってきた。
http://yotacco.com/

http://yotacco.exblog.jp

中之条ビエンナーレで絵を見てきたし、スケッチも目にしている。しかし個展は本当に久しぶりだ。個展というのは、とにかく決断が要求される機会だと思う。ひとつの作品をつくるときでも、無数の選択と決断を重ねているものだけれど、ひとつの展覧会を自立させるには、より大きな決断が必要だ。

自分よりも周りを優先してしまう、優しい性格などというのでは生易しい、もはやそうした体質としか言いようのない彼女が、自分の絵のために時間を費やし、その「決断」をするということが、古くからの友人として、ひとりの作家としてとても嬉しかったし、待ち遠しかった。

古民家を丁寧に磨き上げリノベーションしたyotacco cafe。しかし、古さや懐かしさというよりも、残ってきた(残されてきた)ものがもつ独特の硬質さがより強く感じられる気持ちのよい場所だった。昔ながらの土間と和室のあちこちに、14の絵が展示されている。

大根の絵が目をひいた。大根の葉と根の部分のつなぎ目が気になったと話していたが、たしかに、その二つの部位の接続部分に目が自然といく。新鮮な葉と茎は塩もみすると美味しいんだよな、と内心思いつつ、絵を眺める。

大根は土のなかに障害物があると、二股にわかれるという話や、葉が育ち根が肥大していく栄養成長と生殖成長の話、大豆は枝豆とちがって、葉が枯れてから収穫するため、その畑の様子は「貧しく」見えるという話。絵を描くときは、絵そのものがおのずと求めてくる声というものがある気がするけれど、彼女の今回の制作では、畑仕事をするなかで得たそうした知識が、絵を描くための選択と決断のための大切な手がかりとなっているようだった。

印象的だったのは、縦長の構図が見られたことだ。手ぬぐいくらいの大きさの縦構図は、細長い大根を描くのにぴったりではあったけれど、それがその構図を選ばせた理由ではないような気がした。大根は土に植わっているわけではなく、背景とは少し分離して、宙に浮いてる(半分土に植わっている構図もある)。土のなかのようすを透かして描いているようにも見えるけれど、その白さのせいか、抜かれた大根とただ向かい合っているという気分のほうがしっくりくる。野菜ではないが、カエルが描かれた縦長の一点には、「蛙姿/秋が落ちる」というタイトルがつけられていて、縦構図の上から下へと時間の変化を見せている。横には夜明けの空の下、地中でじっと待っているような生姜の絵「生姜姿 – 芽が動く」。

画面の垂直線は、見る人の(描く人の)身体と呼応する(寝転んで見ればちがうけど)。その下降方向には、落ち葉や土が降り積もり、土壌の育まれる時間が、上昇方向には、それを糧として上へ上へと育っていく植物の成長の時間がこめられているのかもしれない。そういえば、展示が決まるずっと前から「縦長の絵が描きたい」と話していた。

もうひとつ絵を特徴づけていたのは、以前とは異なるコラージュの技法が使われていたことだ。彼女は長く古新聞を絵に使ってきたので、モノクロームに近い色合いの絵が多かったが、今回はyotacco cafeの空間のなかで映える鮮やかさがそこにあった。和紙にグラデーションのある色面をつくり、そこにスケッチの線を重ねてカットし、画面に貼り付けて絵はできている。色面はムラがあり、うつろい変化する時間をあらわすのにふさわしい。

日頃から(というか高校生の時から)スケッチをこまめにしてきた彼女の持ち味は、指がそのままコンテや鉛筆、筆になったような線であり、それが親しみぶかい絵の気質を決めていたように思うけれど、今回の作品はその線はカットのための線となり、くっきりと色面をわける。それは、空間を捉え奥まったり前にでたりという線とはちがい、絵の表面にとどまり手前へと張りをもたらしている。その感覚は、畑のなかで勢いをもって育ってくる野菜の葉を見る時とどこか似ている。季節は流れ、野菜は日々成長する。農業ほど「変化」と運命をともにする仕事はないかもしれない。だからこそ、収穫の時を見定める目もまた鋭くなっていく。絵のモチーフは実りの部分が土の下に隠れている根菜(ごぼう、里芋、人参など)が多かった。彼女がそれらを描くことは、農夫がもつその見定めの目を敬い、その面白さを画家として経験する行為だったと思えてくる。

今回、彼女は風景でも人でもなく、野菜を選び、絵のなかに表した。それは彼女が移住してから身体のなかにたまってきた様々な経験と思考を「収穫」することとも重なっていたのではないか。ぱっと華やかにさえ見える大根の葉の絵を見ていたら、なにかを知ったり見つけたりした時の彼女のぱちっと見開いた目を思い出した。

「地下光学」展

11/18よりグループ展が始まります。

今回はじめて本格的に映像作品に取り組みました。正直、ほとんど初めてのことばかりで、本当にたくさんの方に助けてもらいました(今もまだ)。

個人差は当然あるものの、子供はだいたい一歳前後からしゃべりだすと言われているそうです。

昨年から発声や発話のことに興味をもって制作をしてきたこともあり、一歳前後の子供たちが声を発する映像を撮り、別の映像と組み合わせたインスタレーションをつくっています。撮影したのは少し前ですから、映像を見たら懐かしいと思うくらい、今頃子供たちは成長しているんだとと思います。お忙しいなか、快く家での撮影につきあってくださった10組のご家族、紹介してくれた友人知人に感謝の気持ちでいっぱいです。

この展覧会に誘ってくださった田島鉄也さんは、中之条ビエンナーレで知り合った方ですが、いつも作品が大変するどく、また、フーコーの読書会でもご一緒して、お話するたびに刺激をもらえる尊敬する作家さんです。彼が書いた「内在光(目を閉じて瞼を押したときに感じる光)」についての説明から始まるステートメントもまた、たくさんの発想を私にもたらしてくれました。

websiteもあるので、ぜひご覧ください。

https://chikakougaku.wordpress.com

-会期: 2016 年 11 月 18(金)-27 日(日)  ※21、22日は休み

-時間: 12 時~19 時 (最終日は 17 時まで)

-会場: アートスタジオ Dungeon(ダンジョン) アクセスはこちら

◆ 11月27日(日) 14:00~ ギャラリートーク (その後、作家を囲んでの懇親会)

%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%88-2016-10-06-18-05-42

sukusyo