高山明「みんなのうたプロジェクト」

コロナ禍で参加をとりやめた一件があった。発声をともない、かつ急な話で、この状況では自分には難しかった。私は仕事に小さな穴を空け、それは別の方が塞いでくれた。長く続くコロナ禍で中止になったことはあっても、自分からやめたのは初めてで、決断前も決断後も堪えた。
この状況で精力的に発表できるというのは本当にすごいことだと思う。それだけに、自分がひどく弱虫で、アーティストに値しないのではないかとさえ感じられた。

そんな精神的低空飛行の中、東京ビエンナーレの最終日に公開された、高山明さんの「みんなのうたプロジェクト」を聴いた。つくりはとてもシンプルだ。東京都立工芸高校に通う5人の高校生が、日本に難民として住む5人から、それぞれ故郷で親しんだ歌を教えてもらって歌う。作品では、制作の経緯や高山さんの意図などが、ラジオ風に平易な言葉で柔らかに紹介され、高校生たちの歌が流れる。今回5人のうち1人は歌わなかったが、そのことも「コロナ禍ですからそういうこともありますよね」と軽やかに説明がある。斜めから覗かないと読みとれないようなコンテキストは一片もない。

台所で野菜を切りながら、高校生たちの歌声にはっと息を飲み何度も手が止まった。声を聴くことは空気を通してその相手に触れることなのだ。どんな歌かの簡単な紹介はあるが、歌詞の意味はわからない私が、その歌を受け止められるように感じるのは、どういうことなのだろう。彼女らも歌を通して難民の方に触れ、私も彼女らの歌を通して触れる。伝染を恐れる時代に、それでも人間は他者から移され、移していくことをやめてはいけないのだと思いが自分に静かに訪れる。
なにより、怯えて家にいる自分にまで作品を届けてくれたことを、私はきっと忘れないだろう。

翻ってその数日前、夕書房企画のオンライン対談で、高山明さんと鷲尾和彦さんの「他者へのまなざしを獲得するためには」を聴いたばかりだった。その中で高山さんは、コロナ禍で制作が制限されたストレスを発散するように、世界では大規模で長時間の演劇が作られるだろうし、実際作られ始めているが、それでいいのだろうか?という疑問を投げかけていた。「みんなのうたプロジェクト」はそのようなスペクタクルとは対極にあり、そうした元通りに振る舞おうとする世界に対して、作品そのものが鋭い問いとなっているように感じられた。

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