従来の新聞と違うとはいえ、新聞作りを考えるプロジェクトであるAd Morningsに取り組んでいるので、ここのところは新聞についてよく考える。
新しいことを伝えるメディアは、それを忘れさせることまでセットでひとに働きかけているんだと考えると、今の人々(私も含めて)の忘れやすさの理由はよくわかる。覚えることをどんどん外部に委託しているということはとても怖い。

ある歴史的な事柄を掘り起こし、作品にする作り手がいる。少し調べると、あるいはその人自身が語る言葉から、その人自身の人生の内面的な必然性がそこにはあるとわかったりする。それとは別で、その作品が世に出て観客が出会うタイミングには必然性はなく、いつも唐突だ。この唐突な蒸し返しがなんて大切なんだろうと、横浜で海を見ながら朝話していた。

何年前だろう、折元立身さんのパフォーマンスをギャラリーで初めて見た。彼は最初に「この作品を◯◯に捧げます」と言った。その名前は、少し前に起きたひどい虐待で亡くなった3歳の女の子の名前だった。そのパフォーマンスや折元さんのことを思い出すとき、私は必ずその女の子のことも思い出す。

今日は偶然見つけた一本の記事のリンクをここに貼ろうと思う。少し前に話題になって、ずっと怒りとも悲しみとも言えないような複雑な思いで考えていたことについて、その背景を、そして考える手立てを教えてもらった。

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