星野博美展「睡りのきざし」

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星野博美さんは高校生の時からの友人だ。木炭で石膏デッサンをしながら、消しゴムにつかう食パンの耳をかじる姿をお互い知る間柄である。

来年で6回目を迎える中之条ビエンナーレを、同世代の仲間とともに、その立ち上げからずっと支えてきた彼女は、2009年に中之条町に移住した。
それ以来、農家に勤めながら、実行委員として、参加アーティストの対応をし、自らも絵を描いてきた。
彼女の家にお邪魔すると、土のついた靴や服、野菜、そして、たくさんの本と画集、スケッチが、ごく自然に身を寄せ合っている。

彼女に会うと、畑仕事に携わるひとたちのことや、畑仕事をして初めて知った風景や時間の感じ方の話をよくしてくれた。
7年という月日は、けして短いものではない。からだに堪える農作業に携わりながら、その人柄のおかげで、地元のひとからとても愛され、馴染んでいる彼女だけれども、一貫して彼女は新参者の口調だ。この土地の暮らしにはこんな知恵が、こんな感性があるんだよ、私には見えていないものを彼らは見ているんだよ、といつもぱちっと見開いた目で教えてくれる。中之条町は若山牧水など、詩人や俳人が訪れては作品を残している場所でもある。彼女は農夫にも画家にもなりきらない自分を、旅人の彼らに重ねながら、どこか客観視をしているのかもしれない。

そして、そのおかげで、「彼女が新参者ならば、ビエンナーレの作品制作ために束の間滞在する自分はなんなのだ」という緊張感を私は持ち続けられたのだと思う。

前置きが長くなったけれど、そんな星野さんが群馬の南西部の山間部にある上野村のyotacco cafeで個展をしているので、行ってきた。
http://yotacco.com/

http://yotacco.exblog.jp

中之条ビエンナーレで絵を見てきたし、スケッチも目にしている。しかし個展は本当に久しぶりだ。個展というのは、とにかく決断が要求される機会だと思う。ひとつの作品をつくるときでも、無数の選択と決断を重ねているものだけれど、ひとつの展覧会を自立させるには、より大きな決断が必要だ。

自分よりも周りを優先してしまう、優しい性格などというのでは生易しい、もはやそうした体質としか言いようのない彼女が、自分の絵のために時間を費やし、その「決断」をするということが、古くからの友人として、ひとりの作家としてとても嬉しかったし、待ち遠しかった。

古民家を丁寧に磨き上げリノベーションしたyotacco cafe。しかし、古さや懐かしさというよりも、残ってきた(残されてきた)ものがもつ独特の硬質さがより強く感じられる気持ちのよい場所だった。昔ながらの土間と和室のあちこちに、14の絵が展示されている。

大根の絵が目をひいた。大根の葉と根の部分のつなぎ目が気になったと話していたが、たしかに、その二つの部位の接続部分に目が自然といく。新鮮な葉と茎は塩もみすると美味しいんだよな、と内心思いつつ、絵を眺める。

大根は土のなかに障害物があると、二股にわかれるという話や、葉が育ち根が肥大していく栄養成長と生殖成長の話、大豆は枝豆とちがって、葉が枯れてから収穫するため、その畑の様子は「貧しく」見えるという話。絵を描くときは、絵そのものがおのずと求めてくる声というものがある気がするけれど、彼女の今回の制作では、畑仕事をするなかで得たそうした知識が、絵を描くための選択と決断のための大切な手がかりとなっているようだった。

印象的だったのは、縦長の構図が見られたことだ。手ぬぐいくらいの大きさの縦構図は、細長い大根を描くのにぴったりではあったけれど、それがその構図を選ばせた理由ではないような気がした。大根は土に植わっているわけではなく、背景とは少し分離して、宙に浮いてる(半分土に植わっている構図もある)。土のなかのようすを透かして描いているようにも見えるけれど、その白さのせいか、抜かれた大根とただ向かい合っているという気分のほうがしっくりくる。野菜ではないが、カエルが描かれた縦長の一点には、「蛙姿/秋が落ちる」というタイトルがつけられていて、縦構図の上から下へと時間の変化を見せている。横には夜明けの空の下、地中でじっと待っているような生姜の絵「生姜姿 – 芽が動く」。

画面の垂直線は、見る人の(描く人の)身体と呼応する(寝転んで見ればちがうけど)。その下降方向には、落ち葉や土が降り積もり、土壌の育まれる時間が、上昇方向には、それを糧として上へ上へと育っていく植物の成長の時間がこめられているのかもしれない。そういえば、展示が決まるずっと前から「縦長の絵が描きたい」と話していた。

もうひとつ絵を特徴づけていたのは、以前とは異なるコラージュの技法が使われていたことだ。彼女は長く古新聞を絵に使ってきたので、モノクロームに近い色合いの絵が多かったが、今回はyotacco cafeの空間のなかで映える鮮やかさがそこにあった。和紙にグラデーションのある色面をつくり、そこにスケッチの線を重ねてカットし、画面に貼り付けて絵はできている。色面はムラがあり、うつろい変化する時間をあらわすのにふさわしい。

日頃から(というか高校生の時から)スケッチをこまめにしてきた彼女の持ち味は、指がそのままコンテや鉛筆、筆になったような線であり、それが親しみぶかい絵の気質を決めていたように思うけれど、今回の作品はその線はカットのための線となり、くっきりと色面をわける。それは、空間を捉え奥まったり前にでたりという線とはちがい、絵の表面にとどまり手前へと張りをもたらしている。その感覚は、畑のなかで勢いをもって育ってくる野菜の葉を見る時とどこか似ている。季節は流れ、野菜は日々成長する。農業ほど「変化」と運命をともにする仕事はないかもしれない。だからこそ、収穫の時を見定める目もまた鋭くなっていく。絵のモチーフは実りの部分が土の下に隠れている根菜(ごぼう、里芋、人参など)が多かった。彼女がそれらを描くことは、農夫がもつその見定めの目を敬い、その面白さを画家として経験する行為だったと思えてくる。

今回、彼女は風景でも人でもなく、野菜を選び、絵のなかに表した。それは彼女が移住してから身体のなかにたまってきた様々な経験と思考を「収穫」することとも重なっていたのではないか。ぱっと華やかにさえ見える大根の葉の絵を見ていたら、なにかを知ったり見つけたりした時の彼女のぱちっと見開いた目を思い出した。

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